コラムブログ「だが興味は持て」

気が向いたら書く!

「式典」に興味を持て

時事問題は風化するので あまり扱いたくはないのだが

どうやらこの問題は時事を超えて歴史になるようなので 言及は避けられまい

 

どこに行っても 誰であっても

話題として真っ先に挙がるのは 新型コロナウイルスの話である

 

スマホを開けば コロナのニュースが入ってくる

新聞に目をやれば コロナのニュースが一面トップを飾っている

 

テレビもラジオも新聞も 雑誌も本も井戸端会議も

コロナコロナで日が暮れていく始末である

 

どこに目を逸らしても どこでもコロナが存在しているし

(空気中を漂っている可能性すらあるのだ 物理的に)

 

しかしどうにも コロナのことが頭をよぎるのはもううんざりするので

 

昔の音楽を聴いていれば 暗い話題も考えずに済むであろうと

筆者の好きな昭和歌謡に耳をすましてみたところ

 

小林旭が「ここらで止めても いいコロナー♪」と歌っていたという

 

 

そんな小咄はさておいて である

 

依然収束が見えてこないコロナウイルス問題につき

何をどのくらい自粛すればいいのかが どんどん他人事ではなくなってきている

 

実際問題 筆者の住まう兵庫県においては

隣り合う大阪府への移動はよしてくださいと言われてしまったり

 

(反対側の岡山県に行くのは良いのかと思ったりもするが

不要不急に関わらず 岡山に行く理由は特に無いなと思ったりもする)

 

徐々に規制が緩和されてはいるものの 相変わらず学生は学校に行けなかったり

 

大なり小なり 皆が皆閉塞感を思わずにはいられない事態になっている

 

そして声高になっているのが 自粛の時期が時期だけに

「卒業式はどうするのか」という意見であるのだが

 

 

筆者は昔から こういった式典の類に良い思い出が無いので

個人的な事を言わせてもらうと「別に無くてもいいんじゃないのか」と思うのだが

 

きっと卒業式とか成人式とか 楽しみにしている人はたくさんいるので

ごくごくこじんまりとしたコラムブログで その旨を吐くに留めている

 

とはいえ 声がでかいだけが正義ではない

 

何故こういう「式」が苦手なのか 自分なりに理由を考えてみたい

 

 

僕も31年間の人生の中で 式典に出席したことは1度2度ではない

その中でも比較的大きいイヴェントである「卒業式」を振り返ろう

 

(もう一つデカいと思われるイヴェント『成人式』に関しては

寝坊をして行けなかった という理由により割愛せざるを得ない)

 

まず幼稚園の「卒園式」であるが 既に事情はトリッキーである

 

どういう事かというと まず幼少期の筆者が病弱であったことが端となり

年少の間は園に行けず 年中の途中から通うこととなり

 

更に父親の転勤のために 年長の途中で園を離れることになって

それ以降は 幼稚園そのものに行っていないのであるが

 

しかし流石にかわいそうと思ったのか 両親は卒園式だけは行かせてくれて

 

そんなこんなで事情が複雑であり 卒園式の記憶はほとんど残っていないのだ

 

ちなみにこの頃の筆者は素直で聡明な男児だったので

友人も居たし 同級生からヴァレンタインのチョコを貰うくらいにはモテていた

 

人生をやり直すならここからだなと 今では少し思っている

 

 

次は小学校の卒業式なのであるが

この辺りで既にひねくれ者の片鱗は出来上がっており

 

更に飛び級中二病に罹患してしまっていたので

周りの同級生が幼く見えてしょうがない という天狗児童だった

 

卒業式には 明日からみんなと離れ離れになる という寂しさの側面があり

それ故に涙を流したり というのが定番の心情だと思うのだが

 

筆者は同級生の嫌いなやつと一緒の中学に行きたくないという理由で

塾に通い中学受験をして というネガティブ方向への頑張り屋さんだったので

 

離れ離れは本懐でこそあれ ノスタルジーに浸ることは全くなかった

簡単に言うと 友達が居なかったのである

 

 

そうして入学した学校は 中高一貫校であったので

中学校の卒業式に関しては 話すことすら思い浮かばない

 

離れ離れにそもそもならないので 語ることもマジで無い

 

ただ 筆者の中二病はゆっくりとではあるが確実に悪化を辿っており

そのまま高校生活は進み あっという間の卒業式へと

 

本来「おめでとう」というのは 頑張りによって何かを成し遂げた者への

手向けの言葉として贈られるものであるのだが

 

卒業に向けて何かを頑張っていた訳ではなく

ただなんとなく 6年間経ったから卒業するだけで

しかし卒業式に出ないと親に怒られるから出ておこう

 

18年経っても自我が成熟しないまま 高校の卒業式は過ぎていったのだ

 

もちろん涙の一粒たりと流すような機微も起きなかったのだが

中二病と同じレベルで重度の花粉症を患っていた我が肉体は

 

アレルギー反応という避けられぬ運命により 目と鼻は湿気を帯びて

それが周りから見たら 泣いてるように見られたんじゃないだろうかと

 

今でも少し 恥ずかしくなったりする

 

 

そして大学の卒業式……の話をしたいのだが

 

自己のブラックヒストリーを掘り起こすという

ともすれば自傷行為ともとられかねない文章が延々と続いているのに加え

 

読者諸兄において「これは読んでいて楽しいのか?」という疑念が

これを書いている筆者ですらふつふつと湧いて出てくる始末

 

 

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(ここまでの文章を下書きとして残したまま 一週間が経過しました)

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「これは読んでいて楽しいのか?」と思い始めた途端

まったくキーボードを打つ手が進まなくなってしまったので

 

とりあえず熟成させようと思い 放置していたこの一週間

読み返してみるとまあ何だ先週の僕は愚にもつかない屁理屈をこねている

 

「今でも少し 恥ずかしくなったりする」

じゃねえんだよ 一週間前のお前の姿ですらこちとらちょっと恥ずかしいぞ

 

 

しかしながら 捨てる神あれば拾う神あり

(尻を拭く紙は一週間経っても枯渇しているのに である)

 

若き頃の筆者が何故 式典を斜に構えて見ていたのかが

何となくではあるが 分かったような気もする

 

それは「客観視した時の自分の姿」が頭にちらつくからではないだろうか

 

 

感情の動きというのは 没入感が強ければ強いほど大きく動くものである

 

一緒に頑張ってきた友達と今日でお別れ

毎日欠かさず見ていたこの風景も もう見ることはない

 

そうした寂しさの中に没入していくことで

ともあれば涙を流すほどの 感情の動きに苛まれるのだ

 

しかし我々のような日陰育ちのひねくれ者の心情として

「自分が周りからどう見られているか」がどうしても気になってしまい

 

(この心情を俗に『人見知り』と呼ぶ)

 

客観視のバイアスがかかって 感情没入への抑制がなされてしまう

 

ありていに言うと「冷めてしまう」のである

 

 

思えば遠く昔の筆者の記憶を辿れば

「かっこよく見られたい」「好かれる人になりたい」などと

 

思春期の感傷を多分に含んだ 陽の当たるフィールドへの憧れと

 

マジョリティに迎合してたまるか という相反する日陰への自意識とで

そりゃもう頭はぐちゃぐちゃになっていた

 

間違った方向への努力もしていたし

 

(高校時代の筆者は毎日頭にタオルを巻いて登校していた

それがかっこいいと信じていたからである)

 

そうこうしているうちに ある程度の諦めが必要なことも身に染みた

 

「こう見られたい」という自分を捨てることを 徐々に腑に落としていった

 

 

そうして大人になった今 没入と客観との使い分けが

少なくともあの頃よりは出来るようになったのでは と思っている

 

何しろこれだけ黒歴史を吐き散らした文章を書ける奴なんだから

没入どころか何かに憑依しないと 自分語りなどできるものではない

 

ひょっとしたら今なら 卒業式で涙を流すことくらいできるのかもしれないが

31歳の身空では 人に祝われるような卒業などほぼ存在しないのである

 

 

筆者の結論としては 卒業式は一つの門出という認識を否定するものではないが

 

それでもそれが全てではないよと

卒業式に出たくないと思っている若者も居る という事は分かってもらいたい

 

として この思春期のようにとりとめのない文章をまとめたいと思う

 

そうでなくても 筆者はあの頃の馬鹿げた自分を少し愛おしく感じているのだ

「中二の僕」へ向けた卒業式は まだ行われなくてもいい