コラムブログ「だが興味は持て」

思ったことを思ってる以上に深く

「不器用」に興味を持て

誰が言うまでもなく 物質に溢れた現代社会である

 

人々の求めるニーズが細分化されるにつれて

ものを作る側も細分化されたジャンルに追いつかんと歩みを進める

 

コンピューターはいつしか手のひらサイズになり

誰も彼ものポケットに収まっていることに疑問を持たなくなったが

 

私が欲しいのはこちら あなたが欲しいのはこちら

全てを内包したひとつが欲しいというのは それぞれの歩みが違うからして難しい

 

これを慣用句で言えば「帯に短し たすきに長し」と言うのだけれど

帯もたすきも使わなくなった私たちには それすらがちと難しい

 

今日のブログはそんなお話

 

 

まず最初に言っておくと 筆者はスーパー不器用野郎ということ

 

「赤あげて 白下げて」の旗揚げゲームなど まず上手く出来た試しがない

右腕と左腕で違う動きをすることが出来ないからである

 

そもそも右と左が瞬時に判別できないので

 

(『右』と言われると一回お箸を持つポーズを取ってみて

右が自分から見てどっちなのか判別しないと分からないのである)

 

「そこ右に曲がってね」と優しく指導してくれた教官をまるっきり無視して

堂々と左に曲がってしまい 仮免許試験に落ちたこともあるくらいである

 

もう少し複雑な話をすると

筆者は右利きであるにも関わらず普段から右腕に腕時計をつけている

 

これは先日職場でも指摘されており

「邪魔じゃないんですか?」と後輩女子に怪訝そうな顔をして聞かれたが

 

「めっちゃ邪魔やで」と 素知らぬ顔をして返すしか選択肢はなく

にも関わらず「なぜ右腕に腕時計をつけているのか」と聞かれれば

 

答えは簡単で

「小さい頃に間違えて右につけてて 左へのつけ方が分からなくなった」と返す

 

多分その後輩は ある種聞いてはいけない事を聞いてしまったと思ったのだろう

ひょっとしたら こいつは話が通用しないタイプの人間だと思われたかもしれない

 

それ以降この話題が沸騰することはなく

(この記事を書いていても 沸騰しようがない話題だなとは自覚している)

 

しかしながら 右と左の問題は僕にとって政治的以上に深刻なのである

できればグレイゾーンの中で生きていたいくらい 危険だその錆び付いたシーソー

 

 

読者諸兄におかれまして ここまで読んで筆者の事を

「不器用ではなく天然なのでは?」と感じられる向きもあるかもであるが

 

自分の事を自分で「天然」と評するほど 僕も堕ちてはいないので

 

「自分は不器用なのである」と 堂々と胸を張って宣言させてもらう

こちらは高倉健の後ろ盾もあって 非常にかっこいい言い回しである

 

 

そんな筆者が産まれてこの方

苦手でどうしようもなかった事が一つだけある

 

(本当はたくさんある)

 

それは「何かを作る」という技能についてなのだが

 

以前このブログでも書いた通り ハイパー病弱クリエイターだった幼少の筆者は

病床にて本や図鑑を読むのが大好きな子供だったので

 

特に車と恐竜の本が好きであり マシン作りや化石の復元など

緻密で精密なことへの空想が留まることを知らない そんな頭をしていた

 

しかし当時は自覚こそなかったものの 産まれもってのド不器用である筆者

幼児向け雑誌の付録が上手く作れなくて 癇癪を起した挙句に

 

テープでベタ貼りのきったないスクラップを産み出し

子供ながらに「なんだこれ」と思って それでも大事に遊ぶのは不器用がゆえ

 

自分はものを産み出す側の人間ではない

何となく感じてはいたが 子供特有の万能感は易々と現実を見させてはくれない

 

 

小学校に入ると 図工や絵画の授業がありまして

 

粘土で何かを作りましょう 風景や船の絵を描きましょう

そんなん言われても 頭の中のイメージに技術が追い付かないので

 

粘土で出来た かろうじて人型に見える物質に

「北おおじ きんや」という名札を付けて提出したり

 

船の絵に旗を立てて「ナントカ号」と書いて名付けてみたり

 

(1997年に島根沖で沈没し 重油が流出して大ニュースになった

ロシア船籍のタンカー『ナホトカ号』事件のもじりである)

 

そういうかわいいおふざけを繰り返し 先生に毎度めちゃめちゃ怒られる

そんな生徒だったので クリエイティビティの芽はぐんぐん縮んでいった

 

 

中学に入り 音楽の授業でギターを習うも

右手と左手で同じ動きしかできない筆者がそんな高尚なブツを扱える訳もなく

 

授業の発表では「叩けば音は出る」という理由で

大太鼓のパートを任されるほどである これなら左腕は動かさなくてもよい

 

(ちなみに言うと 筆者にはリズム感すら壊滅的に存在しない)

 

その後の人生で 何回かバンドを組んで活動することもあったのだが

 

「楽器ができない」というバンドにおいて最大級のお荷物要素を

「楽器はできない」という姿勢で 堂々と撥ね付ける事に成功し

 

スタジオセッション中に手持ち無沙汰で何もする事がなく

眠かったのでちょっとだけ寝ていたら少し怒られる などの事件もありつつ

 

何となく私はボーカル専任です という空気を出して乗り切っていた

というか不器用なので周りの視線に気付かずに済んでいた

 

 

思えば我が人生 いろいろなクリエイションに手を出しつつも

ことごとく敗れ去っていく その繰り返しだったと考えている

 

これは筆者が運動も勉強も ろくすっぽう出来ない上に

クラスの中心でお笑いに徹することも出来ないタイプだったからで

 

そうした身分階級に置かれた人間は 文化活動にアメリカンドリームを見出すしかなく

 

楽器屋でラッパを眺めていたら 優しいおじさんがラッパを買ってくれて

一生懸命(当社比)で練習するんだけど 指が動かなくて全然上手くならない

 

そういえば僕は黒人の子供ではなかったと思い知らされて

ブルースを歌いたいけれど ブルースが何なのかあんまり分かっていない

 

 

そんな不世出の不器用に残された頼みの綱といえば

「がんばる」というただ一点である

 

「あの人は不器用だけれど 頑張っている」という見方を

周りの人にしてもらえるなら 不器用なりに救われるというものだ

 

(きっと高倉健も めっちゃ頑張ったんだと思うし)

 

しかしながら腹立たしいのは 器用な人間というのは

「頑張っている自分」を周りに見せる上でも 器用に立ち回るという事実である

 

せめて頑張り方の具体的な方法だけでも教えて欲しいのだが

「出来る人」は 努力が足りないとすぐ言ってくるので

 

そうすると「がんばり」をこじらせて エスカレートさせてしまい

人体が活動中断期間を要求してくるのは 火を見るより明らかである

 

不易流行という言葉は 人を指導する上で頭に入れておきたいものですね

 

(現在筆者のトラウマを掘り返しながら書いているので文体が不安定ですご了承下さい)

 

 

そもそも「不」という感じが頭に付いている時点で

マイナスからのスタート感が否めない訳であるが

 

不器用だからかどうかは知らないが そんな自分を不躾に否定することもできず

 

それどころか 他の人を見て「この人は不器用なんだなあ」と

ともすれば世間からハネにされかねない人の特質に寛容になれる

 

というのは 不器用者の持つ大きなメリットであると思っている

 

自分の経験したことを通してでしか 物事の判断はつけようがないので

ひょっとしたら器用にやれている彼も彼女も 何か悩みがあるのかもしれない

 

もちろん不器用な我々の悩みも 彼や彼女には知る由も無いので

過度に交わることもなく 住み分けをしていけばそれで良いのだけれど

 

我々は不器用なので その線引きを知らず知らず踏み越えていってしまう事がある

 

その時は「この人は不器用なんだなあ」と 笑って許して欲しいのだ

 

 

なんだか書いていくうちに「不器用」という言葉がまるで免罪符であり

何をやっても不器用で許されるとの錯覚が生まれそうであるが

 

自己の不躾を「不器用」の一言で許してもらうほどの器用さがあれば

まず最初から不遜で不作法にもならない筈ではあるので

 

そこは不寛容にならずに 不憫だと少し笑って頂けるのであれば

不本意ではあるものの まあいいかなと不格好に笑うつもりである

 

 

さて 散々文中にて「不~~」という言葉を撒いておりました今回のコラムにて

筆者が結局何を言いたかったのかというと

 

「不〇〇」な登場人物(否定者)による能力バトルファンジー漫画

「アンデッドアンラック(週刊少年ジャンプ連載)」がめちゃめちゃ面白くて

 

おそらく次に来る漫画になると思うので 今のうちに話題にしておこうと思います

 

あと「チェンソーマン」も面白いよ