コラムブログ「だが興味は持て」

毎週土曜日(水曜日)更新

「生きづらいし才能も無い」に興味を持て

全てが全てそのせいではないという前提のもと 話を進めるが

自分の特性のせいで 生きづらさを感じる瞬間が最近増えたように思う

 

一番の理由は 自分の特性について自覚的になったからだろう

 

何となくしんどい苦しいという状況が「生きづらさ」という言葉に取って代わった

その理由が自分の行いではなく自分の造りにあるのも分かってきた

 

何となく というのは「障害」と言う言葉を使うほどではないという意味である

発達障害グレーゾーン」という呼称もあるけれど それにも少し及ばないような

 

日常生活に明確な不具合が生じていない以上 障害と呼ぶのは適当ではないだろう

 

しかしながら健常者(この言葉もどうだろう)とは違う部分が確実にある

人には分かってもらいにくい 生きづらさを産み出す原因になっている部分だ

 

筆者でいうと やらなければいけない事を理由も無く先延ばしにしてしまったり

そもそも忘れてしまったりする 理由が無いので人に説明もできないのがまた苦しい

 

とはいえメモに起こしそれを細かくチェックすることである程度防ぐこともできる

仕事をクビになるような致命的なミスはまだ無い せいぜい人に嫌われるくらいだ

 

児どもの頃から落ち着きが無い 興味がすぐに振れてしまうので視線が定まらない

自分に向けられているのではない視線や言葉にすぐ反応してしまい神経が擦り減る

 

とはいえ授業中に席を立ってどこかに行ってしまうとか 反射的な動きが止まらないとか

そういった事への自制は出来ているだろう せいぜい人に気持ち悪がられるくらいだ

 

有名人や芸術に携わる人が 自分の発達特性について語る場面も増えてきた

 

時によって症例やエピソードによって特性を匂わせるくらいの語り口もあるし

はっきりとした症状や名称を挙げて説明をしている人もいる

 

恐らく自分をどのように見てもらいたいか あるいはその場の空気をどうしたいのか

それによって使い分けをしているのだろうと思う いわゆるTPOというやつだ

 

発達障害というレッテルを貼られることをあまり好ましく思わない当事者も居る

それがレッテルになり得る事自体が問題ではあるのだがそれはそれとして

 

そして発達の特性は 使いようによっては大きな武器にもなるという

向き不向きが極端なだけで 向いているものには秀でた才能を発揮できるのだそうだ

 

先に挙げた有名人や芸術家という方々は それが上手く嚙み合った結果なのだろう

実際に発達障害のみならず 色々なハンデを笑いに変える術が発明されつつある

 

M-1グランプリで準々決勝に進出した「ブレード・ランナー」というコンビがいる

 

車椅子芸人その名も「車太郎」さんが 自虐とも暴論ともとれるボケで相方を振り回す

健常者には決して生み出せない説得力があってとても面白かった 引き込まれた

 

YouTubeにもネタ動画が(今のところ)残っているので 是非観ていただきたい

(それもそうとして今年も予選動画面白かったっすね バッテリィズとか最高だったぜ)

 

芸術方面が先んじて時流を引っ張っている その流れはなるべく見逃したくない

それは置いておいて 自分の立っている位置に何となくモヤモヤするのは何故だろう

 

ちゃんとモヤモヤの内容を言ってしまえば「生きづらいし・才能も無い」のだ

 

きっと筆者が抱える生きづらさは比較の程度でいうと軽いほうであり

それでもしんどさや苦しさは否定できないし 人と比べるものではないし

 

傲慢と偏見を傘にして「もっと才能があってもいいだろう」と主張したいのだが

 

それは「多様性」と言う言葉を自由自在に折り曲げて使う人達と似た思考なので

ここまで傲岸不遜な態度を取るのはそれこそ才能が足りていない

 

自分に対してもっと勝手になりたいけれど 他者からの見え方に怯えている

きっとこれはループであり特性であるからして逃げる事はままならない

 

自分に対して折り合いをつけるためにこの文章を書いているし

他の人に筆者の事を知ってもらいたいがためにこの文章を書いている

 

その折り合いが取れた時に初めて 自分の才能にも自覚的になれるのだろう

だとすると対話は必要不可欠だ 自分とも他人とも である

 

悲しいかな 自分の事を知ってもらう文章を書く時ですら集中が切れてしまうので

最終着地点が取れぬまま曖昧に今回のコラムを終わろうとしている

 

たまには人に言えない愚痴を残したっていいじゃないか

 

何より人と対話をする才能に乏しい筆者がそう語ちているのだから いいじゃないか