コラムブログ「だが興味は持て」

気が向いたら書く!

「想像力」に興味を持て

どんなコミュニケーションにも 完全というものはなく

むしろ不完全であるからこそ 人とのやり取りは面白くなる

 

そんな言葉を信じて 失敗を重ねてきた

 

「死ぬこと以外かすり傷」とは言われるものの

かすり傷だって痛いんだから なるべく傷つきたくないし

 

「あいつは俺にかすり傷を付けてきた」という思いは

それこそかすり傷以上に 跡となって消えないかさぶたになる

 

ひょっとして失敗を重ねるということは

一回一回徐々に徐々に 失敗に鈍感になっていくという事なのか

 

今日のブログはそんなお話

 

 

昨日の夜 まさに昨日の夜(2021年2月14日現在)

 

(『2月14日』とキー入力して気が付いたんですが

今日はセイントバレンタインデーなのですね 笑止千万)

 

東日本を中心とした広域で 大規模な地震が発生したようである

 

規模といい エリアといい 10年前の忌まわしい記憶が蘇り

不安に襲われたり 実際に数字で数えられる被害が出ていたりしていて

 

とにかくこれ以上何も無ければ良いなと 心臓の奥から思いつつ

しかし自然の行いだから 何が起こるか分からない

 

分からないから不安になる というのはほぼ人類の共通認識だと思うのだが

そこでキーになるのが「想像力」である

 

特に地震や台風などの天災においては

過去の経験や伝聞があって それが想像力をかきたてる要因になっている

 

誰しもが 東日本大震災の頃の現実に引き戻されたくない

ただでさえ 悪い夢のような時代に生きているのに

 

そう思っているだろう しかし想像力は働き続ける

 

 

しかしながら 想像力も経験も個人差がある

 

それは生まれ育った時代であり 環境であり 個体差であり

様々な要因が重なっているし それの上下が生物としての上下でもない

 

例えば筆者なのであるが 昨日の夜23時ごろ

ちょうど地震があった時刻であるが つゆ知らずすっかり寝入っていた

 

最近はすっかりライフサイクルが元気なおじいさんみたいになっているので

夜は10時とか11時に寝て 朝は5時とか6時に起きている

 

朝早く起きて YouTubeを見たりすけべサイトを巡回したりしており

つまりは夜更かしあるあるを朝早くに敢行しているだけの話なので

 

全く健康なのか不健康なのか分からない

だからこその「元気なおじいさん」である

 

そんな生活なので 地震があったことを知ったのは今朝だった

 

ヤフーのトップページが只ならぬ雰囲気の見出しで埋まっており

そこからは上澄みの整理された情報を頭に叩き込んでいくばかり

 

何しろ地震が起きてから6時間ほど経過している

たとい真夜中だとしても 既に世界に情報は駆け巡った後なのだ

 

むしろそれなりに情報が駆け巡った後だという事に安堵した

災害の規模が大きければ大きいほど 情報は錯綜するものだ

 

安堵した筆者は もう一度布団に潜り込んですけべサイトを巡回し

気付いたら7時半になっていた 全く健康なのか不健康なのか分からない

 

 

以上が今回の地震で 筆者が経験した全あらましである

 

筆者が震源地より遠く離れた 兵庫県姫路市に住んでいること

筆者が地震発生時には既にレム睡眠に陥っていたこと

筆者が睡眠時には情報機器を枕元に置かないようにしていること

 

他にも色々な要因があって 経験の差となっている

 

ねむけまなこで液晶画面を通した情報のみが 筆者の得た経験だ

その経験をどう補填していくかは「想像力」にかかっているのだが

 

なにぶんねむけまなこであるし 興味の血流がすぐに海綿体に廻ってしまって

今回のことでいえば 全くと言っていいほど想像力は働いていない

 

もうひとつ言えば 筆者自身想像を働かせなかったことを

それで良しと思っている節がある

 

筆者が敬愛し 人生のバイブルと崇めている書物

タイトル名を「パタリロ!」というのだが その中にこんな台詞がある

 

「はーい冷酷で結構 他人の家の棺桶を運びこんで泣くようなまねはしたくないんでね」

 

(『パタリロ!』文庫版5巻収録『幻想帝国』より抜粋

 

この一文を探すために40分かけてパタリロを読み返して

挙句後でまた読もうと思えるくらい面白い作品なので読者諸兄読むように)

 

どうやら落語からの台詞回しのようなのであるが

 

つまりは自分に直接関係ないこと とりわけ悲劇をあたかも自分のものとして

不安になったり落ち込んだりへの例えとして使われている

 

勿論想像力を働かせることは悪い事ではない

 

想像力が無くなってしまった人は 簡単に人を傷つける

何しろ力の配分が分からないのだから かすり傷のつもりで致命傷を与えてしまう

 

しかしながら 悪い方向への想像力の働かせ方というのも確かにあると筆者は思っている

 

 

自身の恥を晒すようで やや気はひけるのだが

思春期の頃の筆者は 極端に周りを信じられない児どもであった

 

それは若さゆえの万能感だったり 暇がもたらした空想遊びだったり

ものすごくモテなかったが故の世間への恨みだったり

 

恐らく原因が沢山堆積していっての事だったと 今では思う

 

きっとそういうコンプレックスは バネにして力に変えるのが大正解なのだろうが

そこまでのメンタリティを持てなかった 稀代の凡人である筆者は

 

身の回りに起こる様々を 悪い方へ悪い方へ解釈していった

簡単な言葉で言うと「被害妄想」の四文字で補える状況である

 

奇しくも時代は「キレる10代」だとか そんな見出しがセンセーショナルで

残された正しい想像力と判断力と 周りの人に恵まれたことで事件は起こさなかった

 

筆箱に忍ばせていた果物ナイフは 自分の手のひらに小さな傷をつけてどこかへ消えた

今でも傷は少し残っているし 血を見るのは怖い

 

メンタルの弱さは 当時を俯瞰で見られるようになった今でも引きずっている

幸いにも コンプレックスをバネではなくそのまま活かす術も生まれているので

 

この能力とは一生付き合っていくのだろうと 諦めもついている

 

 

そんな筆者が常々心掛けているのが 上記に挙げた台詞である

「他人の家の棺桶を持ち込まない」こと

 

探さなくても勝手に飛び込んでくるくらい 悲しいニュースに溢れている

その度に気持ちを表明したり 望まれてもいない弔辞を読んだり

 

そんな事をずっとしてたら

本当に自分が悲しまなくてはいけない事への想像力が鈍感になってしまう

 

ミュンヒハウゼン症候群」という精神疾患がある

 

自分自身に起きた悲劇から生まれた 周りからの憐憫の目や同情を

逆に恍惚に思ってしまい 悲劇をエスカレートさせてしまうという病気だ

 

「代理ミュンヒハウゼン症候群」という疾患もある

自分自身ではなく 自分の身の回りの起きた悲劇を対象としているのが特長だ

 

「他人の家の棺桶を持ち込む」というのは これに近いものがあると思う

悲しんでいる自分の気持ちは果たして混じりっ気がないだろうか?

 

誰かに振り向いてほしくて 背負う必要のない荷物を背負っていないだろうか?

 

身近ではないどこかで災害が起きた その時に必要なのは節度のある哀悼と

自分はどうするべきなのかを考えられる冷静さである

 

コロナ関連でもよく言われる「正しく恐れる」というのはこの事で

 

恐れ悲しんでばかりでは 正しさとのバランスが崩れてしまい

デマや陰謀論や 不必要な情報を垂れ流して恍惚に浸る存在になりかねないのだ

 

 

って柄にもなく真面目な事を考えていたのだが

そもそも筆者は誰に対してこんなにも滔々と諭すような事を語りかけているのか

 

それこそ筆者が想像で仕上げた 仮想敵へのシャドーボクシングなのかもしれない

 

文章を書くのにも割と想像力は使う訳だし

今日の後半は極力想像力を使わずに過ごそうと思う

 

こういう時は 想像力を全く使わずに没入できる

ハーレムものの映像作品が筆者のおすすめだぞ

 

何しろあいつら 特に理由もなくモテモテになってるからね!

そんな青春時代を俺も送りたかったよ じゃあまたね!

 

 

(という 想像力と創造力の欠片もないオチを思いついたのですが

やはり想像力も使わないと枯れていくんですね 全く健康なのか不健康なのか)