コラムブログ「だが興味は持て」

気が向いたら書く!

「生き証人」に興味を持て

我慢だと思うから圧迫に感じるのである

強いられてると感じるからストレスになるのである

 

「自粛してください」という言い方をされているからには

それはもう発信元の問題であろうと 否定はできないのであるが

 

枠の中でどれだけ遊べるかが 工夫という言葉の存在意義である

 

しかしてこの考え方が 自分のひねくれ根性によるものか

それとも我が辞書の自粛の文字が インクがひどく薄いからなのか

 

自分より辛い思いをしている人が居る と思い続けるのは大事だが

人の家の棺桶を持ち帰って 独りで泣く趣味を持ち合わせていないのも確か

 

とにかく数多溢れる文字だか情報だかにうんざりしてしまって

140文字で人に何かを伝える事への限界は浮彫りであり

 

しかしそれを誰かに伝える手段も 文字でしかないという葛藤に耽る

 

今日のブログはそんなお話

 

 

本日5月10日をもって 筆者のゴールデンウィークは終了を迎える

 

つい数か月前までは こんな文字列をブログに載せることになろうとは

そもそもブログを始めようとか ついぞ思ってもみなかったのにである

 

カレンダー通りに休みを貰える現職場においてしても

ゴールデンウィークが10連休もあるとは想定外であった

 

ありがとう土日休み

ありがとう祝日

ありがとう有給

 

今までサーヴィス業的なものに従事してきた筆者の脳は

「人が休んでいる時こそ稼ぎ時」という考えが充満していた

 

その考え方自体は決して間違っていない

人が休んでいる時に働いてくれる人が居るのはとても有り難い事である

 

平日休みだと病院とか役所とかランチとか行きやすいという

明確なメリットも存在するのも 経験より委細承知している

 

とはいえサーヴィス業のデメリットもある

 

基本的にシフトが勤務形態を左右するため

次の休みの日がいつなのか分からない という事態に陥ったり

 

人が休みの日こそ仕事 であるが故に

人と遊ぶ約束を立てられず迷惑をかけてしまったり

 

平日休みのランチを食べようと思って入った食堂がリーマンばっかりで

Tシャツ短パンの筆者がものすごく場違いな奴に思えてしまったり

 

つまり自分にはどのようなスタイルが合っているのか

ただそれだけの話である 職業に貴賤はない

 

(職業には貴賤は無いが 卑しい仕事(ダフ屋とか)はあるし

卑しい奴が就いていそうな仕事(地上げ屋とか)はある)

 

 

ともかく筆者は明日から仕事なのである

ブログを書いているヒマは本来は無い(本当はある)

 

皆様お分かりのように 筆者の生活に「コロナ自粛」の五文字は無い

あるとしても 本来の定義からは限りなく薄くなっていると思う

 

正直に白状すると この10日間も何かを我慢していた気は毛頭なく過ごしていた

 

もちろん予定していた広島への帰省はキャンセルになったし

神戸に行ったり大阪に行ったりと自由に遊んでいた訳でもない

 

とはいえそうでなくても 家でやることは充分にある

放置していたヴェランダの掃除もできたし 網戸も綺麗にした

 

録画していたテレビを観て ラジオを聴いて本を読んで

テイクアウトできるお店を探すのも楽しい作業であったし

 

そうした事に興じていると 時間が足りないくらいである

 

もっと自粛させてくれないかと 雇用主にお願いしてもいいくらいだが

試用期間ゆえ時給で働く我が身分を鑑みて そうは問屋が卸さぬのだ

 

 

全国的に見ても 今年の観光地や地方への人出は少なかったらしい

 

姫路という観光産業で成り立つ都市に住まう筆者としても

それは地肌で感じているところ まあ何処も閑散としているものだ

 

元来が田舎者で 人混みが苦手な筆者は

そうした身の回りを心地よいとすら思ったりするのだが

 

それは経済的な損失だったり 物言われぬ個人事業主だったり

様々な犠牲の上で芽生えている感情なのは勿論なので

 

これ以上は口をつぐむ事とする

 

それと今年は あのニュースを見なかったよなあ

新幹線のホームとか空港で 大荷物抱えた家族にインタビューするやつ

 

かわいい子供がはにかみながら「おじいちゃん家へ」って

浅黒さと胡散臭さが比例するタイプの大人がにやついて「ハワイへ」って

 

あのニュースを 今年はとんと見なかったよなあ

 

その代わり「仕事です」って厳めしい顔のリーマンを撮ってて

どっちにしても何処に需要があるのか及びもつかないあのニュース

 

しかしそれはそれだけ皆が不要不急を意識していたという証左なので

そういう意味では その頭に入れておいてもよい(おかなくてもよい)

 

 

筆者が今更語るまでもなく 今年は異例づくめである

 

普通ではない事態に直面した時に人はどうするのか

またはどうすればいいのか

 

答えではないが 歴史はその判断材料になりうる筈である

偉い人がこぞってそう言うので 恐らく間違いではないだろう

 

歴史というのは 学校で習うような日本史や世界史だけではない

自分が見てきた聞いてきた読んできた全てが歴史である

 

最近では何かというと 2011年の東日本大震災である

未曽有の大災害であり 日本の教科書にも書き記されるだろう出来事だ

 

しかし我々は 教科書を読んでこの歴史を知った訳ではない

直接であれ間接であれ 体験をして知った事が沢山あるのだ

 

(この記事は読者諸兄が2011年以前に生まれている事を前提として書き進めているが

 

もし仮に貴方が2011年以降の生まれなのであれば もし仮にであるが

堕落した大人の書き物に惑わされず 真っ直ぐ生きることをお勧めする

 

それ以外の方々においてはもう手遅れなのでこのまま読み進めて下さい あしからず)

 

どんな教科書にも 歴史書にも

自分がそれを通じてどう思ったか考えたかは書いていないのである

 

試しに2011年の今頃に意識を飛ばしてみると

事情は違えど「自粛」「閉塞感」は当時も蔓延していたように思う

 

ましてや相手は予測のつかぬ「自然」である

いつどのように自分に襲い掛かるかは ウイルス並みに判断がつかない

 

それでも長い年月をかけて 環境と自分の感情に折り合いをつけて

新しい生活様式を作り上げてきた そんな人が大半ではないだろうか

 

偉い人に言われるまでもなく 生活様式は新しく立て直さなくてはいけない

そもそも身の回り全てが不確定要素なのだから それは日常の事なのである

 

 

僕の生まれ育った広島という土地には

およそ70年前 核爆弾により焼け野原になった歴史がある

 

今でもその歴史を色濃く映し出す史跡や風景が残っているし

数は少なくなれど その景色を伝える語り手が存在している

 

生まれ故郷を離れて 初めて分かったことであるが

他の土地では あれほどまでに戦争について教育を受ける機会は無い

 

筆者の曽祖父が 大久野島の毒ガス工場で働いていたという背景もあり

戦時中の色濃い歴史に触れる機会は それなりに多かったと感じている

 

人の数だけ歴史はある

 

今我々が触れているのも 歴史の一部分である

しかもかなり濃度濃いめの歴史であると 誰もが感じている

 

折角なら そんな時代の真っただ中にいる我らが

どんな事を思って感じて考えたのか 残してみるのはどうだろう

 

明くる時に それを読み返した時に

自分がどう思うのかを想像できるような 出来ればそういう形で

 

そう考えてみれば である

140文字も使えるスペースに舌先三寸の不平を記している場合ではないだろう

 

誰もが歴史の生き証人になれるのである

 

しかし生きていなければ生き証人にはなれないので

やはり自粛は必要なんだけれどもさ

 

 

それはともかくとして また一つ電脳世界に提言をした以上

「残してみるのはどうだろう」という責任感に欠ける言い回しで締めるのは良くないだろう

 

具体的には何がおすすめか?

 

例えばコラムブログを書いてみるのはどうだろうか

時間潰しにはもってこいだ 何しろこの記事も書き始めて3時間経つ

 

書いているうちに何が言いたいのか分からなくなって

文章のまとまりが無くなり どうにか文字数を埋めるのに3時間かかった

 

自粛するための時間がもう少し欲しいとすら思う 今日この頃である

 

 

(賢明な読者諸兄におかれては 前回の記事とオチが同じだと思われようが

仕事始めが明日に迫った今 気持ちの入り方が前回とは格段に違うと付記しておきたい

 

マジでもうちょっと休みたいんだけど 何とかなんねえかな)