コラムブログ「だが興味は持て」

気が向いたら書く!

「共感」に興味を持て

元来 好き嫌いの多い性質の筆者である

 

 

(以下 閑話)

 

今回より 一人称を「筆者」に改めようと思う

 

一人称というのは その人個人個人の個性の表しどころでもある

漫画や小説でも 自分をどう呼称するかは 分かりやすい差別化にもなる

 

筆者は普段であれば「僕」「私」「俺」などと数多くの一人称を使い分けている

 

それはいわゆるT.P.Oによるところが大きいのだが

これら全て英語であれば「I」で済む単語である

 

職場で自分のことを「俺」と呼ぶと 人によっては失礼に取られかねない

かといって「私」では気取っているし 「僕」だとちょっと幼く見える

 

「ミー」だとおフランス帰りかな?と思われるだろうし

「吾輩」だと この人は10万31歳かな?と思われるだろう

 

日本語の奥深さ・奥ゆかしさと言えばそれまでであるが

面倒くさいっちゃあ面倒くさいなー とも感じてしまう

 

ちなみに筆者の一番くだけた一人称は「わし」であるが

これは単純に 筆者の生まれ育った広島の方言であるので特に意味はない

 

 

では何故 コラム上での呼称を「筆者」にしたのか

それを紐解くためには 筆者の読書遍歴を辿らねばならない

 

筆者の敬愛する小説家である 乙一氏による

虚実入り混じったコラム作品「小生物語」という本がある

 

その中で乙一氏は 一人称を「小生」と呼んでいるのだ

 

今でこそ イニシエのオタク感あふれる「小生」という呼び名だが

元々をさかのぼれば 小説家の一人称としての猛ったイメージが強い

 

かくしておそらく 特に深い意味なく使われた「小生」であったが

作品内で乙一氏は その「小生」という呼び名に別人格を遣わせ始めるのだ

 

現実世界の乙一氏と コラム内での「小生」との

何とも言えぬ距離感がこの本の面白さなのであるが それはそれとして

 

筆者が最近読んだ「一発屋芸人列伝」という本の中で

著者の山田ルイ53世氏(髭男爵)が自らを「筆者」としており

 

なんかそれいいなあ と思って拝借しただけの話である

 

つまり先ほどまでの「小生物語」のコーナーは与太話である

どちらの本もとても面白かったので 読んでほしいとは思っている

 

(以上 閑話休題

 

 

特に食べものに関する好き嫌いは多いと自認しており

 

31歳になった今でこそ 食べられるものも増えたのであるが

幼少期はそれこそ 食べられるものの方が限られる人生を歩んできた

 

とりわけ 海産物が苦手であり

 

 

(余談ではあるが 筆者の生まれ育ちである広島県では

冬になると 名産の牡蠣があちらこちらで販売されるようになる

 

否 年がら年中カキは売っているのであるが

冬に採れるカキが一番おいしいのだと 筆者の周りの有識者は言う

 

読者諸兄予想はされているだろうが 筆者はカキが食べられない

それどころか貝類全般が一切食べられない がゆえの無識者となっている

 

したがって季節でカキがどういう味変をするのかも知らないが

地元の有識者は皆こぞって『冬になるとカキが食べたい』と言うのだ

 

『カキは美味しいけど 当たるのが怖いよねー』などと

さもあるあるであるかのように有識者は語るのを 無識者は黙って見守るしかない

 

そもそもが食べられないので その『当たる』ってのが何なのかも分からない

当たるとすごくつらい という事だけ人づてに聞いたことはあるが

 

『海のニオイが苦手』という 海産物を食べる上での第一歩目でつまづいているので

筆者がカキに当たったつらさを体験することは 今後もおそらくない

 

 

しかし筆者がカキに当たるよりつらいと感じているのは

広島出身であるのに カキが食べられないというその身の上である

 

厳密にいうと 筆者自身が身の上を案じている訳ではない

 

周りの者が『せっかく広島生まれなのにカキが食べられないなんて』と

要らぬ世話から不用意な一言を吐いてくるのがつらいのである

 

この際はっきり言っておくが 筆者のような食物の好みがはっきりしている人間は

その手の哀れみを向けられた時に どうしていいか分からず困るのである

 

カキが食べられない自分をかわいそうだと思ったことは一度もないし

カキを食べている人を見て 羨ましいと思ったこともさほど無い

 

(人の輪に入れない という理由で寂しくなったことはある)

 

筆者がカキを食べられないのは 単なる趣向の違いなのであり

そこに憐憫も羨望も付け入る隙は無い というのが考えである

 

ヒンズー教の教徒を見て『牛肉が食べられなくてカアイソウ』と言うのが

当人にとってはお門違いであるのと 似たようなものであると思ってほしい

 

更に筆者の場合は『広島の名産はカキなのに』というワンポイントが加わることで

カキ好きの人達から『もったいない』の烙印を押されているのである

 

言っておくが 広島にはその他にも美味しいものが沢山あるのだぞ

広島のお好み焼きは世界一だし 冷麺も汁なし担々麺も最高にうまい

 

ホルモン天ぷらとかコウネの焼肉とか

まだあまり知名度の高くない名品もあるし 広島はいいところだぞ

 

などと挙げ連ねていたら腹が減るので ここらで止めておこう

ダイエッターである筆者の身の上には 飯自爆テロになりかねまい)

 

 

エビとかカニとかが どうにも食べられないのである

 

「海のニオイが苦手」という 海産物を食べる上での第一歩目でつまづいているので

筆者がエビ・カニを美味しく食べることは 今後もおそらくない

 

 

そこで今回の本題

 

エビといえばエビフライであるが

(文字数の都合上 異論は認めない)

 

巷にあまねくエビフライあるあるとして

「身が細いのに衣が厚くて だまされた感じになる」というものがある

 

 

―――ここまで書いて筆者はふとした考えに思いを寄せ

キーボードを叩く手を止めて 脳を行きかう一つの意見に身をゆだねた

 

曰く「このあるあるは エビフライではなくエビ天ぷらなのでは?」と

 

確かに調理工程として エビフライよりはエビ天の方が衣を分厚くしやすい

エビフライの衣では 構造的にパン粉そのものを大きくするしか厚くはできまい

 

しかし あるあるネタで大事なのはネタの「なんとなく共感」の部分である

 

エビフライだろうがエビ天であろうが ネタの本質に変わりがある訳ではない

細身のエビに厚めの衣を付けて誤魔化す そこに何の違いがあろうものか

 

そもそもがあるあるネタというのは 世に言う「優しい笑い」の分類である

共感という感情には 人を理解しようという優しさが不可欠だからだ

 

だからもしも筆者がエビフライとエビ天を取り違えていたとしても

諸兄の優しさをもってして 黙って共感をして頂きたいと思う

 

それでも看過できぬ両者の違いが エビフライとエビ天にはあるのかもしれないが

それを筆者が共感するには 到底至れぬ境地にあるとも知ってもらいたい

 

何故なら筆者は エビフライもエビ天も食べられないのだから―――

 

 

しかし筆者は エビフライが食べられないので

この「エビフライあるある」に理解を示すことができないのである

 

ありていに言うと「共感できない」という形になる

 

この「共感」には「体験」が必要不可欠であり

エビフライを食べるという体験ができない筆者は 自ずと共感もできない となる

 

 

しかし筆者は抜け道を見つけた 人間は考える葦である

 

ある日バナナを食べていて思ったのだ

「皮が分厚いバナナって可食部が細く見えて損した気分になるなあ」と

 

これは上記のエビフライあるあると似通ったシチュエーションである

 

あるあるへの入り口は違えど そこからの感じ方次第で共感は生まれる

自らの蓄積した「体験」をどう使うかが重要なのだと悟ったものだ

 

 

人に共感をするためには どんなことであろうと体験をすることが大切

 

これが今回 筆者の伝えたかったことである

読者諸兄はこの文章を読んで 何に共感できたのであろうか

 

ともかく筆者は 巷にあふれるカキフライあるある

「断面を見たくないから一口で食べきる」に共感するための旅に出ようと思う