コラムブログ「だが興味は持て」

気が向いたら書く!

「マスク」に興味を持て

文明の進歩は 30数年しか生きていない私達でも

それこそ目に見えない速度で進んでいることは理解できる

 

目に見えないものに自分を合わせていくこと

時代は5Gだと言うけれど 一体自分は3Gにも追いついているか

 

むしろ目に見えないものを 見えるものに噛み砕き飲み込む

それこそが今必要な技術だとは分かっているものの

 

データ量が膨大過ぎて 噛み砕こうにも口に入らず

 

インプットできないものを無理矢理アウトプットに載せるからし

齟齬や矛盾が生じるのではないかとも肌で感じる

 

もっとスローに情報を取り込んでいこうではないかと

 

今日のブログはそんなお話

 

 

久しぶりにブログを開いたら トップページに

 

「この広告は、90日以上更新していないブログに表示しています」

 

という「こいつ更新サボってるぜ!」の歪曲表現が載っていたので

冒頭のポエムコーナーにまずは言い訳を綴った次第なのであるが

 

ちなみにブログの下部の方には 前回更新が138日前と書いてあり

 

138日間といえば 小学校に入学した子が小学1年生になるくらいの年月なので

こりゃあ自分でも随分サボってしまっているなと反省しきりである

 

しかしこの怠惰癖(怠惰―ジェットシン)というのは今に始まった話ではなく

30数年の半生で醸成されたコッテリ濃厚系の性癖なのだが

 

例えば大学生の頃に所属していた演劇部にて

 

筆者らの代は7人しか同学年生が居らず にも関わらず

圧倒的な人望の無さにより 1人だけ役職に就けなかった最終学年の筆者

 

「部長」「副部長」「会計」等といった燦然と輝く肩書の中に

「ホームページ更新係」という よく言えば広報悪く言えば閑職

 

さも取って付けたような役割を与えられ

今とさして変わらぬ駄文を演劇部ブログにしたためており

 

そもそもそんな経緯だから 業務へのモチベーションが低いうえ

パソコンを開けばニコニコ動画で松岡修造MADにアクセスしてしまう悪習慣と

 

生来の怠惰(スティーブン怠惰ー)っぷりが上手く噛み合い

 

ブログを書く度に冒頭に「久しぶりの更新となりました すみません」と

文末には「更新頻度上げていきます すみません」と

 

判で押したかのような システマチックな謝罪文が踊ることとなっていて

 

書いたら書いたで「一回更新したからとりあえず良いだろう」と

ブラウザバックで再度ニコニコ動画を開き 修造MADをぼんやり眺める日々

 

そしたらまた更新間隔が空いて 役職付き同級生に「早くブログ書け」と怒られる

 

こういったパターンを繰り返すうちに 筆者のモチベーションは沈下し続け

留まることを知らない人望の降下により 友達が居なくなったのである

 

 

「分かっているならちゃんとやればいいじゃん」と読者諸兄思われようものの

 

「自覚があっても自我が勝つから!自覚、自我、自我ー!」と

ウエストランド井口氏も申し上げている通り 我の強さは悪癖として重なっており

 

(今年のM-1グランプリも面白かったですね

そういえばこのブログはM-1の話から始まっているのでもう開設1周年なのですね)

 

この記事を書いたことで安心してしまい ついついスマホを開いて

YouTubeでギャルゲー実況動画に溺れる恐れは往々にしてある 間違いなくある

 

あの頃(10数年前)の自分と何も変わっていない怠惰さ(怠惰ースウィフト)や

行動パターンの画一化には 筆者自ら畏怖の念を感じており

 

変わった事といえば スマートフォンの便利さとコンテンツの充実ぶり

ニコニコ動画の凋落といった 周りの環境ばかりなのである

 

技術の進歩の速さは 筆者なぞが今更語るまでもなく

読者諸兄各々が感じている ほぼその通りのイメージであるが

 

その進歩に着いていけているかというと これにはかなり個人差が生じているだろう

 

筆者も一応形として ツイッター・インスタ・フェイスブックなど

一通りのソーシャルメディアに足跡を残しているのではあるが

 

(足跡といえば 筆者が高校生の頃隆盛を誇っていた『ミクシィ

 

筆者も友達が居ないなりに登録をして 思春期丸出しの悪文日記と

アイデンティティを表現するのにもってこいだった 数々のコミュニティ

 

それらを駆使して 他の誰かとは違う自分アピールをカマしており

 

久しぶりに あの時の自分がどうだったのか祠の封印を解いてみようと

ログイン画面に立ち寄ったら IDもパスワードもすっかり忘れてしまっており

 

消すことも覗くことも 黒歴史として飲み込むこともできない

インターネット漂流物と化していたことが ずっと心残りとなっている)

 

どのSNSも使いこなせているとは到底言えず

というかSNSを使いこなしている(ように見える)奴の胡散臭さが好きになれず

 

ツイッターは企業アカウントからの情報収集 フェイスブックはプチ同窓会

インスタグラムは似鳥沙也加のグラビアを見る為のツールと化しているのが現状である

 

 

そんな情報弱者である筆者であっても 洪水のように情報は流れ込んでくる

 

こんなブログをやっておいて言うのも何であるが

誰も彼もがコメンテーターになりたがりのこの時代において

 

運悪く誰も彼もが言葉を発信するツールを手に入れたことで

石がかなり多めの玉石混交情報 しかも全く磨かないままの石を流してくる

 

流してくるならまだましな方で 角が尖ったままの握りやすい石を

そのまま投げつけてくる奴も居るのでこれはたちが悪い

 

巷では「これは漫才なのか」論争が沸き起こっていると俄かに話題であるが

そもそもが石の投げ合いぶつけ合いなので それが論争なのかは果たして疑問で

 

そうなると「これは論争なのか」というテーマで石の投げ合いに発展し

いよいよ人類の歴史に争いは無くならない

 

かといってそういう話題を避けようとすると

「問題意識から目を背けるな」という大岩を転がしてくる奴もいるので

 

もうこうなったらいよいよ 人間を避けて生きる折り合いが必要となる

 

何が言いたいかというと 周りに情報が多すぎてインプットが追い付かないのだ

 

今筆者がキーボードを叩く動作も アウトプットの一部だとすれば

自分に貯め込んだ「書きたいこと」が無くなってしまっていた

 

例えるなら(昔から無闇に例えが多いのも筆者の悪文の悪癖である)

物を食べずに排泄をすることはできず アウトプットはインプットの賜物である

 

しかも毎回のブログに数千字を費やすからには どうにかエンタメに持っていきたい

からして普段からエンタメを食べておきたいのだが食べられない

 

ついつい目に入った情報を飲み込んでしまっているせいで

本当に食べたいものを詰め込む胃袋の余裕が無くなってしまっているのである

 

コロナ禍における緊急事態宣言のもとで

「エンタメは不要不急なのか?」という石の投げ合いが行われたが

 

エンタメを楽しむ余裕が無くなった挙句の石の投げ合いなのだから

多少不急でこそあれ 不要であるとは口が裂けても言えまいよ

 

 

当初はブログを書かなくなった3カ月半の言い訳を綴るつもりであったが

考えるほどに深刻で だからこそ簡単な解決策があるのではと思う

 

強い言葉を使うなら「情報の遮断」ということになる

 

ちょうど日本には「わびさび」という文化があり

情報をぎりぎりまで削ぎ落とした中に美の極致を見出してきた

 

そこまではいかずとも「自分には要らない」と判断した情報を消して

自分が美味しいと思った情報を取り込んでいくのが良いのではないか

 

全く何も食べないと飢えてしまうし 食べ過ぎると太ってしまう

 

情報取得においてもバランス感覚が必要な世情になってしまった

本当はそんなことも考えず気楽に暮らしていきたいのに である

 

しかしながら 見えないからこそ感じられる情景もあるもので

 

人間の脳には 自分が直接目視で確認できない部分を見たときに

頭の中で理想形を作り 想像で補うという機能が備わっているらしい

 

「確かにそうだよなー」と 筆者はひとり街頭に佇んでは

道行く女性たちのマスク姿の下を想像していたりするのだが

 

そういう本心を述べ過ぎて 建前とのバランスを崩してしまい

読者諸兄にこのブログが要らない情報として遮断されないか

 

これが目下の悩みであるとは言っておこうと思う

 

(更新頻度上げていきます すみません)